患う
脳内出血(a cerebral hemorrhage)
2004.02.23(月)
ワタシは今、岡山市東部のとある脳神経外科の病室で絶対安静。身動きもままならぬ状態なのだ。
病名は右脳内出血。絶対安静だが、実のところ卒中とか発作でいきなり倒れたのではない。きのう(22日)、風呂場で滑り転んで頭を打ったときに脳内にも出血したらしいのだ。
以下は事故当日の夜、縫った傷の痛みで眠れないので、狂言師きゃさりん(いとしのワイフ、以下キャシーと略)か看護師さんに貰った紙に書きつけたメモをもとに再構成したものだ。
日曜の午後1時すぎ、昼飯の約束があった。操法大会でがんばった地元消防団の第1分団第1部の打ち上げだ。午前中ほこりまみれになっていたので、シャワーをあびることにする。このときはもちろんシラフだ。
浴室に入った2歩目の右足が滑り、右肩から倒れた。とっさに受け身をとったが、同時に目の前に星が飛ぶ。視界が真っ赤になり、額から血の柱が吹き出して、空のバスタブに糸のように落ちているのがかすむ目にも見えた。鮮やかな赤だったので「ヤバっ、動脈切ったか」と思いながら、手近のタオルで強く押さえて止血。キャシーに119番するように頼んだ。
いきなり、スプラッター映画のようだったはずだが、119番が初体験のキャシーはそれでも気丈に受け答えをしていた。変なもので、あれだけ自分の血を見てしまうと逆に冷めてきて、気分はすっかり落ち着いてしまった。彼女が電話口で消防署員が出す質問を復唱してくれたので「前後の記憶も今の意識もはっきりしている」「タオルで圧迫止血中」などと伝えることができた。ただ自分でも家族を動転させまい?と、ハイになって「大したことない」と普段の倍ぐらいしゃべっていたかもしれない。
転んだ時に右手首を痛め、左手で額の圧迫止血していたので、両手とも使えない。キャシーに最低限の服を着せてもらう。素っ裸ではあとあと困る。お気に入りの「Karl Kani(カナイ)」のトレーナーも血まみれ。
キャシーに持っていくものを指示する。財布、当座の着替えなど、忘れずケータイも。そろったところで救急車を待つだけになった。おもむろにケータイでオオモリ班長に事情を説明し後を頼むだけの余裕はあった。
サンダルを履き、自力で玄関を出たところでしんどくなり、階段下にへたりこんだ。救急車が着くまで5分。真っ青な顔で心配する娘のリリィを安心させようといろいろ話をした。
すごい量の血に見えるけど床に拡がっているからで、これだとトマトジュースひと缶かふた缶分ぐらいで、大した量ではないこと。年末にいった献血は2缶分より多かったこと。血を止めるのに何針かは縫うけど、心配しなくてもそんなに痛くないこと、などなど。
まさか入院とは思わなかったので「しばらくお酒が飲めなくて残念なこと」なんかも話したっけ。以前習ったとおりの圧迫止血でもなかなか止まらない。上向きに階段に腰かけて頭を上の段に預けていたら、みるみる血だまりになっていった。
血でぐしょぐしょになったタオルが2本半だから出血量は3−400mlか、と計算しながらあおむけになっていると、外を通りかかったどこかの幼稚園児(?)が「なぁ、ひとが血を出して死んどる」と大声。緊迫した状況だが、絶妙な間に大笑いしてしまった。「おっちゃんは死んどらんで」と言い返しながらも、笑いが止まらなかった。あの子はどこの子だったんだろうか。
救急車のサイレンの音がだんだん大きくなるのを聞くのが、こんなに頼もしいことだとは今まで思ったことはなかった。救急車が到着。近所の人たちも心配顔で集まっている。三角巾(?)で応急の止血をしてもらい、ストレッチャーに乗せられて車内へ。今、冷静に振り返ればその光景は血まみれのけが人が「大丈夫だから」とはしゃいで手を振っている、わりと寒い光景かも。サイレンを鳴らしながら当番医へ。
当番医で額の細い動脈の切断を4カ所で止めてもらった上で、約2センチの傷を3針縫う。でもホーローの浴槽であれだけ打っていたらひょっと脳の中身も、といわれ念のためCTを撮る。
この時点で午後3時。晩飯はナベにするか、惣菜をあれこれ買ってピクニックみたいに並べるか、とか、後頭部が血まみれだけど、どうやって頭を洗うのだ? 酒は当分ダメだが、あさって歓送迎会だ、とのん気なことを考えていた。明日会社なのにこの派手なホータイはバンドエイドぐらいに小さくならんかとかね。
ところが、CTの結果がよろしくない。頭がい骨の中、きょうできた傷の裏あたりに2センチぐらいの血腫があるという。2週間ぐらいで収まっていくはずだが、急に大きくなって脳を圧迫するようになると、ウチでは対応できないと言われる。で冒頭の脳神経外科に救急車で搬送される。
この時点で1、2泊を覚悟した。が医師がカルテとCTを見るなり、こりゃ1−2週間様子を見ましょうと言われてから後はストレッチャーとベッドの上ばかり。
ベッドの上で頭を30度以上、上げないよう言いつけられる。それから重篤のリカバリ室(ナースステーションの隣にあるやつだ)で一泊目が確定。
「グリマッケン注」 、「アドナ(50)トランサミンS」と書かれた点滴を受ける。右手をねんざしているので左手で持った紙を動かすように書きつける。ネットの環境がそろえば、調べることもできる。(注:ネットで調べると、これらは脳循環改善薬、一般には固まった血を溶かす脳梗塞のクスリらしい)
とても明日は仕事にならないと覚悟し、同僚にメールで一報。上司へも連絡を頼む。病院内は携帯のメールも禁止のようだが、見逃してもらった。点滴を受けながら、うつらうつらしては時計を見ると、いつもさっきから10分ほどしかたっていない。それが延々と朝まで続いた。痛み止めも効かないし悪夢のようだった。
眠れないので看護師さんに頼んでクリップボードを借り、この日の出来事を書きつけ始める。断片的にレポート用紙5枚、当座の仕事段取り2枚など延々と書く。少し書くと眠くなるが、痛み止めがあまり効かず痛みで目が覚める。
なんとか細切れの睡眠をとりつつ、朝を迎える。
翌朝(23日)、個室へ移動。しばらく入院するならネット環境は必要だ。昨晩、帰り間際のキャシーに、愛用のPowerBookG4、PHSカード、iPod、デジカメなど、いつも仕事カバンに入っている(今回は週末で中身が家中に散らばっていた)モバイル関連機器を病室に持ってきてもらうよう頼む。
結局、昨日(22日)はCTを3回、MRIを1回受けた。今朝(23日)もういちどMRI、CT,眼圧の検査。やはり絶対安静。キャシーが大荷物を抱えてきてくれる。PHS通信で当面不満はない。というか長居をするつもりはないのだ。メール、Web、Site更新など一通りのものを準備。
キャシーの話では夜8時ごろ?帰宅したら、娘のリリィは気丈にも家中のおびただしい血のりをほどんど始末し終わっていたそうだ。この春に高校生になるものの、まだまだ「へなちょこ」だと思っていたが、ここ一番は母親ゆずり、たいしたものだ。二人に改めて感謝の言葉を贈りたい。
23日午後、職場の同僚、上司が様子を見に来てくれる。当面かかえている仕事の打ち合わせ。申し訳ないがよろしくお願いする。
メモをもとにここまで書いたが、絶対安静の元、できるだけ頭を動かさず、学生時代の下宿のように両手の届く範囲にすべてを置くことで可能になった。モバイル環境とはありがたいものだ。
とりあえずこの項、ここまで。今後の経過はずっと休止中だった寺沢屋BBSで。(了)
【追記】
25日、医師に「頭を打っての内出血ではなく、先に脳内出血していて、そのマヒが左に出て転んだ」可能性を指摘される。と言われても全く自覚症状はなかった。コケる直前に左足の指(!)で床のタオルをつまんで洗濯機に投げたり(行儀悪いよな)したので左側のマヒとはちょっと考えにくい。が出血の様子がそうらしい。なら日ごろの不摂生が原因ではないかと言われる。
原因はともあれ、治療と再発防止に養生は欠かせないことに変わりはないのだと観念する。
今日になって気になるのは、キーボードからの入力。左手の動きが若干遅れているようだ。たまにチャタリングを起こしている。これが後遺症と言えば後遺症か。
ただ、いつものフルキーボードを打ってみないと、ほんとのところはわからない。ANSI仕様のパワーブックでも配列はきゅうくつなので、普段は文書を大量に入力することはないからだ。
【3月2日追記】
左手のチャタリングはどうやら点滴ルートの影響のようだ。点滴ルートを右手に変えたら、無意識にかばうのか、右手の動作が遅れだし左手は元通り。
【3月6日追記】
無事、退院しました。後遺症とかの心配もないようです。
【3月24日追記】
外傷の関係か、右まぶたから右唇の端が常時しびれていますが、よだれがたれるようなことはありません。ちょっと、しゃべりにくいのですが普段が普段だけに「おとなしくてよい」とも言われ、早くべらべらしゃべるようになってやろうと思います。医者によると脳内出血の影響ではないらしいです。